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須磨浦マップ
須磨に古くから伝わる伝記の数々をご紹介します。
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須磨伝記マップ

皇女和宮の像

前々回の記事で、安徳天皇の冥福を祈るために建てられた安徳宮についてご紹介いたしました。



今回はその傍に建てられている像、皇女和宮の像をご紹介致します。

有栖川宮熾仁親王と婚約を結んでいた和宮は小さい頃から幕府の波に飲まれ、波瀾万丈に生きた女性でした。
仁孝天皇の第八皇女として生まれた和宮は、幕府が天皇の意向を無視し開国に踏み切ったことに不満をもった朝廷の一つの駒として使われてしまいました。
朝廷と幕府の関係を改善するため、幕府の強い要請で有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄され、17歳で徳川幕府の14大将軍家茂に嫁ぎます。

その後、誠実で優しい家茂と共に仲睦まじく関係を保っていた和宮でしたが、家茂が病死し、江戸の街にも戦火の手が伸びようとしていました。
しかし、有栖川宮熾仁親王総指揮の官軍が徳川幕府へ総攻撃をかけようとしたところ、和宮の懇願により、江戸は戦火の炎から救われました。

これが彼女の波瀾万丈な一生です。
和宮について有名な歌がひとつありますのでこちらもご紹介します。

惜しまじな 君と民との為ならば
       身は武蔵野の露と消ゆとも


この君、とは誰のことを指しているのか、徳川家茂なのか、有栖川宮熾仁親王なのか、歌を詠まれた時期が判明せず、未だに謎に包まれているそうです。

今回ご紹介したこの像は現在和宮の像がある場所から300mほど入った山中で見つけられ、平成12年12月に現在の場所へと移されました。
なぜ、一の谷の山中にあったのかは未だに謎とされています。
昭和9年に、神戸高校、夢野台高校、須磨高校に和宮像が寄付されましたが、この像は戦争中の金属供出から免れるために誰かが山中へ隠したのではないか、とも言われています。

和宮の話は過去、NHKのドラマにもなっています。
安徳宮や須磨へ足を運んだ際は一度訪れてみてください。


Posted by 須磨浦マップ at 11:35 │コメント(7)

敦盛塚

今回はまた、源平の戦いの一つ、一の谷の戦いの中であった出来事をご紹介します。


敦盛塚
■敦盛塚

この敦盛塚は、平敦盛を弔うために建てられた塚だと言われています。
平敦盛は、以前ご紹介した一の谷の戦いに参加していました。
一ノ谷の戦いの中でも有名である、源義経が行った『逆落し』と呼ばれる奇襲によって平家は敗退、多くの武将が討ち取られました。
平敦盛もその一人です。



平家が敗退、岸から離れた船へ駆け込むために海へと逃げる中、源氏の武将であった熊谷次郎直実は手柄を立てようと平家の武将を探していました。

平敦盛を見つけた熊谷直実は、背を向け逃げる敦盛に「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼びかけ馬から組み落としました。
しかし首を取ろうと甲を上げ素顔を見てみれば14~15歳に見える若武者、敦盛の姿が。

この時の敦盛はまだ17歳、自分の息子と同じ年齢の敵に直実は躊躇し名を尋ねるも、「名乗らずとも首をとって人に尋ねろ、すみやかに首を取れ」と答えられ、泣く泣く直実は敦盛の首を取りました。

敦盛を供養する際、帯びていた笛「青葉の笛」は笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだと聞いた熊谷直実は、深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが強まった、と言われています。

その後、熊谷直実は敦盛を討ったことを悔い、世の無常を感じ法力房 蓮生という法名で出家しました。

平家物語の名場面としても知られているこの話は、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』を始めとして様々な作品に取り上げられています。
また、須磨寺には平敦盛と熊谷直実の像や、敦盛の首塚、敦盛遺愛の「青葉の笛」等が展示されています。


今回は一の谷の戦いの中でも有名な出来事をご紹介いたしました。源平の戦いや平清盛に興味のある方は是非脚を運んでみてください。

Posted by 須磨浦マップ at 14:22 │コメント(1)

モルガン灯籠

皆さんは1月20日が何の日かご存知でしょうか?
実は、1月20日は「玉の輿の日」なんです。

玉の輿とは女性が金持ちの男性と結婚する事で自分も裕福な立場になること、です。
そんな女性の皆さんが憧れる玉の輿ですが、日本に元祖玉の輿と呼ばれる方が居ました。
モルガン・ユキさんです。

本名は加糖ユキさん。14歳で「雪香」として京都・祇園の芸妓になりました。
21歳の時、モルガン家の御曹司、ジョージ・モルガン氏と出会い、求婚されます。しかし当時京都大学在学中の恋人との結婚を夢見ていたユキさんはモルガン氏の求婚を断ってしまいます。
ところがその恋人は家族に芸子と結婚することを反対され、別の女性と結婚してしまいました。失恋後、モルガン氏の度重なるプロポーズを断っていたユキさんも3年越しの熱烈な求婚に負け、結婚を決意しました。

ユキさんはその誘いを断るためか、身請け金を当時のお金で4万、現在の金額では4億の大金をつきつけますが、モルガン氏はそれをあっさりと払い、その上10万円ともいう結婚費用をかけた結婚式をあげました。この話は一度皆さんも耳にしたことがあるんじゃないでしょうか?


「4万円の夢」などと羨望を受ける一方、「金に目がくらんだ女」と嫉妬を受けながらの波乱の人生を送ったユキさん、この人も実は須磨との関わりを持つ人でもあります。
前回ご紹介した安徳宮の前には一対の石灯籠があり、モルガン・ユキさんが献納されたことから「モルガン灯籠」と呼ばれています。
安徳宮の記事はこちら≫


実は、ユキさんは「異人山」と呼ばれていたこの須磨の土地に1年ほど住んでいたと言われています。

今回は源平合戦や平清盛から少し離れ、モルガン・ユキさん、モルガン灯籠のご紹介をいたしました。
次回はまた日本の歴史に関わりの深い事柄をご紹介します。

Posted by 須磨浦マップ at 15:54 │コメント(0)

安徳天皇

ただ今放送中の大河ドラマにもなっている、平清盛には、孫が居ました。
生まれて生後間もないうちに立太子、3歳に天皇に即位した、安徳天皇です。

屋島の戦いで源氏に敗れた平氏は、1185年、最期の決戦である壇ノ浦の戦いでも敗北し、一門は滅亡の一途をたどることになります。

その壇ノ浦の戦いの際、最期を覚悟し、前回ご紹介した一ノ谷の戦いの前に持ち去っていた三種の神器の内の2つ、神爾と宝剣を身につけた祖母、二位尼(平時子)に抱き上げられ、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問うも二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じました。
安徳天皇は歴代最年少の数え年8歳で崩御した幼帝でした…



安徳宮
この須磨の土地には安徳天皇の冥福を祈るために祀られた宮、安徳宮があります。
源氏に追われた安徳天皇が平氏に奉じられて西下する途中、一の谷、宮のあるこの場所に一時内裏を置いたと伝えられています。

またこの他にも安徳天皇の怨霊を鎮めるために源頼朝の命により現在の山口県下関市に阿弥陀寺御影堂が建てられ、その阿弥陀寺には天皇怨霊鎮慰のため、木彫の等身大尊像が刻まれ、本堂の中心に厨子に収めて安置されています。その他にも下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵した『安徳天皇縁起絵図』が飾られています。



現在安徳天皇は久留米水天宮(福岡県久留米市)の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになりました。


安徳天皇は上記のこと以外にも数々の伝説が残されています。
壇ノ浦で入水せず生き延びた説は九州四国地方を中心に全国で20ヶ所余りも伝承の地が残されています。
その他にも硫黄島の伝説に昭和期に安徳天皇の末裔を称し話題に登った長浜 豊彦なる人物が居た、実は女帝だったのではないか、と疑念を起こさせるような記述があるなどの伝説が残されています。


幼いながらも天皇を努め、8歳という命を壇ノ浦に散らしてしまった安徳天皇、
須磨に残る歴史の欠片の地に訪れてみてはいかがでしょうか?

<アクセス>
山陽電鉄「須磨浦公園駅」から北東へ徒歩約15分


Posted by 須磨浦マップ at 15:51 │コメント(1)

一の谷の戦い

6年に渡る長い治承・寿永の乱の中には幾つかの戦が有りました。その中の一つに「一ノ谷の戦い」があります。

一ノ谷の戦いは、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦いです。

一の谷から西一帯の海岸は戦いの激戦地になったことから、「戦の濱」と言われ今現在もそれを伝える碑、戦の濱碑が須磨浦公園の東側に建てられています。
詳しくはこちら≫

事の始まりは1184年1月26日、後白河法皇が源頼朝に平氏が都落ちの際持ち去った三種の神器の奪還を命じたことでした。

☆2月4日
源頼朝から命を受けた、源義経源範頼は、福原に陣営、その外周である東の生田口、西の一の谷、山の手の夢野口に防御陣を敷いている平氏を追いました。
この三箇所が一ノ谷の戦いの激戦区となります。

同日、源義経軍は、三草山にて平資盛らを夜襲し撃破。勝利した源義経軍は、平資盛らを土肥実平に追撃させました。

義経軍はその後も迂回進撃を続け、鵯越にて軍を二分し、安田義定に兵を与え、夢の口にて守りを固めている平通盛へ向かわせます。

そして
☆2月7日

鵯越へ向かう途中、先駆けせんと源義経軍から抜けだした熊谷直実・直家父子は、塩屋口にて守りを固めていた平忠度軍へと進撃します。
これにより、一ノ谷の戦いは開戦しました。

多勢に無勢で討ち取られかけた熊谷直実・直家父子は、平資盛ら追っていた土肥実平に命を救われ、平忠度との激戦となりました。

同日、午前6時。
生田口にて守りを固める平知盛軍は、源範頼軍と激戦を繰り広げていたが、壕や逆茂木を重ねた守りに苦戦していましたが、梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、降り注ぐ矢の中を突進し、「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せます。

また、源義経と別れた安田義定軍も夢の口にて平通盛と奮戦します。

生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるも、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は突破出来ずにいました。


逆落とし
一の谷の裏手、平家軍の背面、断崖絶壁である鵯越にて戦機を伺っていた源義経は、人馬では超えることが出来ぬ難路でしたが、冬場の鹿は越えられると聞くと「鹿が通れるならば、馬も通えよう」と兵たちを励まし、一の谷の平忠度軍へと襲撃を掛けたのです。

予想もしない方向からの攻撃を受けた平忠度軍は大混乱となり、それに乗じた源義経軍は火を掛け、平氏の兵たちは海へと逃げ出しました。



一の谷より上がっている煙を見た源範頼は総攻撃を命じ、平知盛軍は浮き足立って敗走を始めます。

沖合の船より戦況を見ていた総大将の平宗盛は、敗北を悟り、屋島へ向かうのです。

戦いは源氏軍の快勝でしたが、第一目的であった、三種の神器奪還を達成できず、また、海戦の備えがなかった源氏は敗走する平氏を追えずに源氏と平家の戦いは、西の壇ノ浦の戦い屋島の戦いに続くことになります......




Posted by 須磨浦マップ at 18:02 │コメント(1)

村上帝社

村上帝社とは、須磨区にある村上天皇を祀る神社です。
この神社には当代随一と呼ばれた琵琶の名手・藤原師長の伝記が残されています。

平安末期の太政大臣(現代で言う総理大臣のようなもの)藤原師長(もろなが)は琵琶の名手でした。己の技量に満足していなかった藤原は、周囲の反対を押し切り琵琶の本場・当時、中国の王朝であった唐へ渡ろうと決意します。


日暮れ時、須磨の辺りへ辿り着いた藤原は老夫婦の宿を借りる事になります。
その夜、藤原は一宿一飯のお礼にと琵琶で一曲弾き上げるとその老夫婦は琵琶と琴の伝説的な名人であった村上天皇と梨壺の女御へ姿を変え、藤原が唐へ行くのを押し留めるのです。


そして唐へ渡る必要のないほどの演奏の秘伝と素晴らしい琵琶を与えられた藤原は唐へ渡ること無く都へ帰り着いた、というのが村上帝社にまつわる伝記です。

この伝記を題材として、能の「絃上」が作られました。






<アクセス>
山陽須磨駅から徒歩3分
JR須磨駅から徒歩5分

Posted by 須磨浦マップ at 12:06 │コメント(0)

須磨浦に関する伝記をご紹介

ここでは、須磨浦に関する伝記、語り継がれている伝説などの物語をご紹介していきます。
楽しみにお待ち下さい。




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Posted by 須磨浦マップ at 11:58 お知らせコメント(1)