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須磨に古くから伝わる伝記の数々をご紹介します。
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一の谷の戦い

6年に渡る長い治承・寿永の乱の中には幾つかの戦が有りました。その中の一つに「一ノ谷の戦い」があります。

一ノ谷の戦いは、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦いです。

一の谷から西一帯の海岸は戦いの激戦地になったことから、「戦の濱」と言われ今現在もそれを伝える碑、戦の濱碑が須磨浦公園の東側に建てられています。
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事の始まりは1184年1月26日、後白河法皇が源頼朝に平氏が都落ちの際持ち去った三種の神器の奪還を命じたことでした。

☆2月4日
源頼朝から命を受けた、源義経源範頼は、福原に陣営、その外周である東の生田口、西の一の谷、山の手の夢野口に防御陣を敷いている平氏を追いました。
この三箇所が一ノ谷の戦いの激戦区となります。

同日、源義経軍は、三草山にて平資盛らを夜襲し撃破。勝利した源義経軍は、平資盛らを土肥実平に追撃させました。

義経軍はその後も迂回進撃を続け、鵯越にて軍を二分し、安田義定に兵を与え、夢の口にて守りを固めている平通盛へ向かわせます。

そして
☆2月7日

鵯越へ向かう途中、先駆けせんと源義経軍から抜けだした熊谷直実・直家父子は、塩屋口にて守りを固めていた平忠度軍へと進撃します。
これにより、一ノ谷の戦いは開戦しました。

多勢に無勢で討ち取られかけた熊谷直実・直家父子は、平資盛ら追っていた土肥実平に命を救われ、平忠度との激戦となりました。

同日、午前6時。
生田口にて守りを固める平知盛軍は、源範頼軍と激戦を繰り広げていたが、壕や逆茂木を重ねた守りに苦戦していましたが、梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、降り注ぐ矢の中を突進し、「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せます。

また、源義経と別れた安田義定軍も夢の口にて平通盛と奮戦します。

生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるも、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は突破出来ずにいました。


逆落とし
一の谷の裏手、平家軍の背面、断崖絶壁である鵯越にて戦機を伺っていた源義経は、人馬では超えることが出来ぬ難路でしたが、冬場の鹿は越えられると聞くと「鹿が通れるならば、馬も通えよう」と兵たちを励まし、一の谷の平忠度軍へと襲撃を掛けたのです。

予想もしない方向からの攻撃を受けた平忠度軍は大混乱となり、それに乗じた源義経軍は火を掛け、平氏の兵たちは海へと逃げ出しました。



一の谷より上がっている煙を見た源範頼は総攻撃を命じ、平知盛軍は浮き足立って敗走を始めます。

沖合の船より戦況を見ていた総大将の平宗盛は、敗北を悟り、屋島へ向かうのです。

戦いは源氏軍の快勝でしたが、第一目的であった、三種の神器奪還を達成できず、また、海戦の備えがなかった源氏は敗走する平氏を追えずに源氏と平家の戦いは、西の壇ノ浦の戦い屋島の戦いに続くことになります......





Posted by 須磨浦マップ at 18:02 │コメント(1)
この記事へのコメント
建物は、宮殿への公式訪問での要人のための待合室として使用された。彼らは彼らのランクに応じて三つの異なる事前部屋に先駆けた。
Posted by resume professional writers at 2013年11月26日 19:43
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